美しい芸術は強く、深く、創造的なものであり、どんな人間の生活でも、興味をそそり、いとしむべきものに変えることができます。どんなに惨めな生涯でもそうです。
長い人生においては、偶発的な悲劇に見舞われることもあるでしょう。自分にふりかかってきた不条理な出来事に対し、「何故、こんなことが起こったのか?」と呆然としていると、その不幸な出来事しか見ることができません。その悲劇に対する「怒り」をただ感情にまかせて表現する自己満足だけでは、通俗的なものしか生まれず、過去からの苦悩から抜け出すこともできません。
心を落ち着かせ、過去の記憶を一つ一つ見つめ直して、「人々に何を伝えればよいのか?」を明確にすると、最初は心が乱れ、不安に襲われることもありますが、自らの気持ちを謙虚に整理できます。たとえば、過去の自分は未熟で、その経験があったからこそ、今の自分がいると気づけば、その出来事は自分を成長させるための糧だったと認識することで、心の平穏を取り戻すこともできます。
表現の自由の権利は、あなた自身の物語を創造する契機、自らの体験を語るための手段になるだけはなく、過去に区切りをつけ、世界を新たな視点で見直す契機にもなり得ます。
芸術的な表現をする中で、自身の過去を受け入れ、自らの運命・生い立ち・時代の精神などをすべて受け入れた上で、複雑な社会構造や人間心理を掘り下げながら、自らの心境を正直に、注意深く告白することで、あなたは新たな自分に生まれ変わろうとする気持ちが、内に芽生えるのを感じるでしょう。
うわべの表現だけを求めても美しい芸術は生まれず、少しでも気が引けて大切なことに触れないでいると、真実は姿を見せません。たとえ、それが犠牲を伴う苦痛な真実の告知であっても、実質を捉えるがゆえに作品に迫力が生まれます。
迫真に迫る創作を通じて、あなたの心が過去から現在へと結びつけてゆくと、気持ちが解放されて軽くなるばかりか、あなたの思い出が作品内で精神化されてきます。
あなたの自己意識が、みずからが提供できる材料を通して、知性の中に、心性の中に、感性の中に、つまり、自身の内界全体の中に溶け込むような思いを抱くことで、もろもろのすべてが美のあふれる生気となって、美のエスプリ(直感的な叡智)として作品に宿り、「美しく生きるとは如何なることか?」と、鑑賞者らに突き付けることになるでしょう。
心の世界における人間の自己意識は決して孤立した存在ではなく、それぞれが両極的な性格を有する6つのマインド機能(直観と思考、精神と集団、肉体と愛情)と共存しており、そのどれもが自己意識にとっては、尊ぶべき感覚といえます。
一方、個々のマインド機能が必然性によって動くと同時に、互いに相依って成立しているが故に、機能自身の中に否定の契機を含むことによって心の世界は成立しています。
自己意識はそれらの機能と結び合って、決意や考え方という単一の分割できないものを作り上げており、何か確固とした決意をもって表現に臨んだ場合、相反する感情による割りきれない気持ちが残ったりします。例えば、直観的な確信に従うため、思考の合理的な意見を却下する、あるいは、肉体の生き残りを優先するため、愛する人をあきらめる、という具合です。
この心の在り方そのものが全人格的統合感と言えるものであり、傍観の痛み、切ない諦め、あるいは、激しい懺悔を抱き、それらの思いをすべて受け入れるからこそ、私たちの自己意識は、過去の思い出を自らの信念をかけて表現し、自らがこの世に存在する意味、運命を規定する決定的なものを作品に映し出そうと努力を重ねられるようになります。
「どのような作品を展示することで始まりとし、何を表現することで満足とし、何をもって終わりとするのか?」 自らの作品を発表し、人々の反応を確かめながら、どの様に自分の気持ちに折り合いを付けてゆくのかを、自分なりのやり方で決めてゆくのが、表現の自由と言えるもの。
そこに無意味なことは何一つありません。自らの人生経験を作品の中に取り入れて表現し、世の中に働きかけることが重要であり、自身の尊厳をかけて作品を創り上げたなら、自分がよしとし真であると認めたものを社会に投げかけてみましょう。
人は誰れしも、自分一人では完全に満たされることはありません。心を満たすためには他者とわかち合う必要があり、あなたの時間、智恵、感性、そして、優しさを他者に与えることであなた自身も満たされ、それが、結果として未来を切り開く力となります。
自身の苦悩を克服して、客観化できた創作家は、他者の共感を得る中で、内なる意志・見解を生み出して、美しい思想を育ててゆくものです。
あなたの命は有限なものとしてやがて消え去りますが、追いかけ、悩み抜き、こだわりある表現から出てきた言葉、奥底に眠っていた生命的結論は、たとえ、それがささやかなことであっても、あなたの力強い生命力と尊厳を作品に映し出し、人々の心を動かすでしょう。
あなたが「自分の作品を展示することで、わずかであっても世界が違うものになるよう人生を生きた!」と感じて納得できれば、申し分はありません。
作品の展示を通じて、すべての生命はつながり合い、互いに影響し合っているを理解し、そのつながりを感じ取り、他者の痛みや喜びを、自分のこととして感じてみる。自らの作品に対する他人の意見や評価を把握し、特に、今の若い者たちは、どういうふうに、また何を教えて欲しいと思っているのかを究明することが大切になります。
あなた自身の気持ちと人々の気持ちとがつながり始めると、ものごとを見通す能力が高まり、人間社会の内奥と、言葉や行動の背後にある特筆すべきものを見透かせられるようになります。人々の現代人の肌感覚をつかみ取ったなら、作品の発表を通じて社会とかかわり合う意味をもっと探りつつ、新たな作品の展示が外部に及ぼす影響を考えてみましょう。
芸術的に表現した真実は、たとえ言葉で言い尽くせない内容であっても、象徴的に美の尊厳を示し得るのであって、作品に宿る美のエスプリが現代人の感覚に強く訴えることで、あなたの運命、作品と生活との中の断定は、個人の感情をはるかに超えて影響を及ぼし始めます。
あなたと同じような痛み、思い、価値、そして希望をもつ人たちは、あなたの作品に共感するでしょう。その人々があなたと志を共にする可能性が生まれ、あるいは、あなたが諦めから実現させずにしまった悲願を彼らに託すことができれば、あなたという自己意識の存在に深い意味を与えことにもなります。
表現の自由の本当の意義は、行為の中にではなく、あなたの心の中にあります。心の中にひそかに生まれようとする美しいものについて、その成長を傷つけないために沈黙を守り、誰にも打ち明けない時期があるかもしれないものの、一旦、重苦しい沈黙を抜け出して、社会に対し「自分は創作を通じて何ができるのか?」を試してみたくなったら、創作に取り組みましょう。
芸術は作品の中に何かしら自分の似姿を登場させ、物語を創作してゆくもの。そこに刻まれた自分の永遠なる姿を客観化して見ることで、自身の改善すべきところを自覚する一方、自己成長を課題としながら、現実の社会を真摯に受け止めて、美的、道徳的、文化的義務を感じ取り、自らの人生に向き合うということになります。
自らの姿を作品に刻みこみ、自らの命が作品の中で息づいていると強く感じる中で、作品内に表現される意味、真実、何かしらの運命的な教訓が宿り始めると、自身の作品はあなた個人がどういう存在であるかを教えてくれ、あなた独自の道(使命)へと導いてくれるはずです。
生命の繁栄を支える美しい表現には、自然に近しい鋭敏な感覚があり、有機的生命に対して共感を抱きつつ、自らが得たものを表現していると、直観が冴え渡り、現実感覚の限界を乗り越えて、より深い示唆を始めます。
もっとも崇高だと思える美の力に全身全霊をゆだねながら、自らの名を刻印した作品を発表して、社会の美しい面や喜ばしい面を汲み取り、しかも暗い面についても知識を持ち、そういう裏側に見られる多くの醜悪な事柄からも目をそらさない。
美の力に導かれる精神体験の中で生まれた作品は、美の守護として、人々に社会のあり方を深く考え抜く契機を提示することになり、社会の芸術・哲学・科学に大きな影響を与えることで、地球は一層平和で調和のとれた共同体へと変わっていくでしょう。