自然にある生命は自己を反復し、時間の流れの地表にふたたび浮かび上がり、ふたたび現実になろうと試みる。この自然と結びついた 美しい芸術の創作は、客観的、創造的な熟視であり、素朴な自然に触れると、自らの美意識がみずみずしく弾みます。それは清々しい大自然の癒やしに感謝し、朝と夜に繰り返される輝かしい景色の中で感受する「持続可能」を覚える感覚と言えるもの。
日本に伝わる「美意識」は、閑寂の中に奥深さや豊かさを、また、枯れ草に趣を感じとったりします。季節の変化によって、自然物はさびれたり、枯れたり、ほころんだりしますが、それらの変化は自然の摂理に適った必然なもの。野草はそのときどきの状態に調和し、野草は状態に、状態は野草にぴったりと一致するようになる。
この摂理の中で人類は進化し、秋が訪れるとばらばらに育った収穫物を納屋に収め安全に保管してきたので、私たちの感性には、大地との接触、有機的なものに対する共感があり、自然の営みが織りなす多様な姿、悠々しく現実に生きる姿に美しさを感じることができます。
たとえ秋に山草が枯れようとも、私たちの感性は、次の春には山草の芽が出て生い茂り、豊かな緑の恵みが引き続き人々にもたらされて、子孫の繁栄が保証されるというサイクルを理解しており、自然が創りだす造形には、存在の現実性が何かしら備わっている印象を持つことができます。
人間の心にあるマインド機能(直感、精神、思考、肉体、愛、思考)は、あらかじめ組み込まれている自然なものであり、それぞれが対立する性格を有しつつも、自己意識の統制下で調和を保とうとします。 私たちの自己意識は、心の属性をまとめ上げる能力を高めてバランス感覚を身につけると、静隠で力強くなり、健全な判断を下せるようになります。
しかし、人間は誰でも、たとえどんなに自分を枠にはめて感じていても、またどんなに多くの事柄に依存していようとも道徳目標と道徳方向を自分で選ぶことができる。その際の選択基準は、人間の内部で信念となって現れる。人間は、自分自身が生み出す信念の力で働くことができる。
だから、人間の自己意識が一つのマインド機能の肥大化を押さえられず、現実に対する敬虔な気持ちを失ってしまうと、自然界のルールから外れて「醜の性情」を生み出してしまいます。
たとえば、ある女性の自己意識が愛情機能(愛されたい)を働かせて、夫の子供を献身的に育てているとします。彼女の姿が美しいのは、それが家庭にとっての安心や生命繁栄につながる有益なことであり、彼女の生き甲斐や喜びにもつながるからです。
しかしその後、夫が別の女性と不倫をするようになり、それに憤る妻の愛情機能が、夫の愛する娘に対してあてつけに虐待を始めるとどうでしょうか?
この時、彼女の直感機能(悟りたい)や精神機能(社会貢献したい)は、彼女の愛情機能が先導する虐待行為を止めるようにと彼女の自己意識に訴えるため、自己意識は自分の娘の哀れさに涙を流しながらも、なお家庭の行方を見極めようとし、とりとめなく迷う。
自己意識の思索は眼を心全体に向けるのか、それとも個的存在に向けるのかによって、相違が生まれます。もし妻の愛情機能が怒りにまかせて肥大化し、それに自己意識の眼が釘付けになってしまうと、現実を不自然な仕方で解釈してあさましい思いにとりつかれてしまい、結果として、焦燥のなかで忍耐力を発揮できず、ためらいながらも虐待を続ける醜い者となってしまいます。
人間は一つのマインド機能に執着すると、心の世界に幻想が生み出し、その幻想によって「きっとうまくいくだろう」と当マインド機能の声を正当化しようとします。執着によって冷静さを失うと、現実の事情を別様に解釈する様にもなり、当の自己意識は正しく考えることも正しく判断することもできなくなります。
純粋だった若者が醜い者になる経過をたどっていくならば、結局、一マインド機能に執着した自己意識が利己的に物事を回そうとする心理状態に突き当たる。つまり、都会的な暮らしに生まれる問題だったとしても、そこには原始的な心の働き、人間の「心の在り方」そのものが、美と醜の根本的対立を引き起こしており、他人に対する不寛容さや利益の奪い合いによる紛争は、二次的な原因だと解釈すべきです。
私たちは一マインド機能に執着して、盲執によりあくせくしてはならない。このような幻想は、社会の切実な暮らし中で生まれるため、まずは、人間の心の世界を常民の立場から眺め、互いに相依って成立している諸事象に現れる美しさや醜さを感じ取ること。
心の動きに現れた不審な点を社会の風潮に委ねて見過ごしてしまうのではなく、あなたの美感によって、現代人の考え方の形成過程に照明をあて、心にある醜さの原因を解明すれば、時代のよくない風潮、民族の悪習慣、社会制度の歪みなどの問題点が浮かび出てくるものです。
よって、自身の感性を発揮して今の人間社会を読み取り、人々の現実感覚を理解し、深く心に響くものを表現して世に問う。このような真実に迫る作品を展示することは、今の社会制度を悪用する醜人たちの不正を暴き出すことにつながり、醜に対する抑制力になり得るのです。