= 6 善と悪の戦いを終焉させる =

【美しい芸術と感性】

  

 美しい芸術とは、「生命の繁栄に貢献する表現」を通じて、自然の法則に従うことを意味します。大自然はすべての命の基本的な要素であり、私たちの美の感性は、その自然と深く結ばれていると感じ、自分を自然の生きた一分肢であると感じています。

 

 その感性が芸術に向き合うとき、事物の内奥に深く参入して、そこに生きて働くものを直感的に探し出し、自然が提示する謎を解こうとする。この感性の視点に立つ芸術表現は、美しい自然や人の美しい行為を尊重して大切にすること(あるいは、醜い行為を批判すること)は、自身の生存欲求を満たしたり、子孫の繁栄を保証することにつながりることを知っており、故に、生命の繁栄を目指す美は「正道」、生命の破壊を目指す醜は「邪道」とみなします。

  

【健全な動物性】

 

 自然の生々しい創造の営みには残酷な一面がありながらも、その根源は「健全な感覚」に支えられており、地球上の個々の種は、死を恐れ生存したいと願いながらも、子孫を残すために自己犠牲を発揮し、それぞれが個性的に進化する中で、全体としての生態系を作り上げ、結果として美(生命の繁栄)に貢献しております。

   

 仮定の話として、ライオンや鷹が高度に進化して、自分たちの縄張り争いを起こし、善だと悪だとか騒ぎ立てた挙句に、他の生命を争いに巻き込む形で殺傷し、生態系を破壊し始めたら、私たち人類はどう対応すべきでしょうか? 

 

 当然、看過できないはずです。自然界はバラバラに成り立つ生き物の集まりではなく、それぞれの命が相互に影響しあう「関係の網」としてかろうじて成り立っているからです。 

 

 よって、醜い芸術の量産時代で説明した通り、戦争を仕掛けて多くの生命を殺傷する醜い者たちの感性には、豊かさや健全性がなく、かれらが主張する「善」には、何か痛々しいもの、苦しいもの、恥ずかしいような響きがあります。

 

醜い芸術の量産時代を参照】

 

【善悪という価値の形骸化】

 

 人類史上、不正を働き国を衰退させた醜の権力が、醜い芸術を通じて、「善と悪の戦い」という構図を作り上げて、哲学的良心のない戦争を起こしてきた結果、今の時代になってもまだ異なる価値観を有する国家同士が、それぞれが異なる善悪の基準を抱いて激しく争っております。

 

 一方、芸術が問題とする醜さは人間の心の在り方(心の偏り)であって、それは現実的には存在するが目には見えないものです。よって、戦争を意識した国家が作り上げた芸術作品の中で表現されている暴力的な善や不明瞭な悪について、私たちは美の観点から再評価を行い、作品制作の意図を見極め、醜に関する問題点を浮き彫りにする必要があります。 

 

 美の感性が抱く認識要求は、完成された作品の中に、神秘的なもの、永遠なるものとして崇めることができるような美の叡智を宿しています。これを見つけ出す感性は、美しい作品の中に真実や自然の法則を悟る一方、醜い作品の中に不自然さや嫌気を感じ取ることもあるでしょう。

 

 自然の美は永久的な存在であり、人類の時間的民族的規定を超越して「自然界における人間社会の在り方」を教えてくれます。生命の歴史における美の存在意義を理解すれば、混迷する善悪の戦いという構図自体が、ある一時代の考え方でしかないナンセンスなもの、終焉すべきものとの認識を得て、世界史の方向を変える取り組むことができます。  

  

【旧時代終焉の根拠】

 

 人類史上、国家間による「善悪の戦い」という構図は、既に終焉を迎えるべき時代にあります。より具体的な理由を述べますと、、 

 

   

 ・法制度そのものを否定する訳ではないが、国家における法律の枠組みは、醜い勢力の不正により、壊れているか、緩んでいるか、あるいは脅威にさらされている。国家のルールが主な根拠となり、「善悪の規定」を定めるような現代社会にて、その根底となる法律制度を美意識の欠落した醜い勢力が悪用しているようでは、世界を正しく導く力が消えてしまう。 

 

 ・官僚らの中には従属を好む存在が一定数おり、権力に気持ちの上で逆らわずに行きたいという欲求に動かされるため、自分の気持ちに純粋に行動するのではなく、ある情勢の基準に一致した態度を取る。醜い勢力が残虐な態度をゆるしてくれそうなら、これ幸いと徹底的に利用、乱用する場合もあり、官僚らの自己欺瞞の蔓延が広がってしまうと、国全体としての意思決定の品質も低下してしまう

  

 ・ある醜い独裁権力が利己的な戦争を起こし、それを歴史に刻み込み始めると、当地域の外交史上、どこが最初の悪で、何が争いの根本原因かも分かないまま、「民族の憎悪と復讐心」による戦争が繰り返される土壌が生まれる。血なまぐさい混乱が続くほど、邪悪な勢力にとっては戦争の大義を偽装しやすくなり、本当の正義は存在しないまま、善と悪という虚構の戦いが繰り返されてしまう。 

 

 ・美(生命の繁栄)の立場から捉えると、数え切れないほどの野生動物たちの命を爆撃に巻き込み、海・草原・川・森・山・湖などにおける「生態系の破壊」を平気で行うような戦争は、いかなる大義でも許されるものではない。 

 

 ・人間の心にある6つのマインド機能がそれぞれ世界思想を作り上げ、6タイプの価値観の異なる国家が誕生したことは必然にある。一方、価値観が異なれば、当然に「善悪の基準」も異なってくるので、これらの違いを乗り越えてゆくためには、世界の人々が共感できる「美」の価値(生命の繁栄)が必要になってくる。 

  

 したがって、各民族国家が主張するそれぞれの「善」には惑わされず、無意味なものとして取り扱うべきです。それは同時に、新たな世界観、「美」の感性により人々の共感を集め、人々の団結力が醜い者たちの意図を暴き出して、地球の秩序と生命の繁栄を再構築すべき時代が訪れたことを意味します。 

 

 結果として、これまでの民族史は、価値観の異なる民族がそれぞれに規定する善悪を判断基準として争いを繰り返してきましたが、今世紀からは国同士の争いに眼を向けるのではなく、それぞれの国家に潜む醜の危険性をそれぞれの国家に暮らす市民たちが認識し、対峙すべき段階に入るべき、と言えます。